フェローインタビュー fellowinterview

先生はプロサッカー選手!?スペインのプロリーグから小学校教員へ。(前編)

~ソフトバンク社長室出身の校長の右腕として働く中原さんに聞きました!~

日本で今注目を浴びている「札幌新陽高等学校」をご存知でしょうか?ソフトバンクの社長室で活躍された荒井優氏が校長を務める学校です。「本気で挑戦する人の母校」というVISIONを掲げ、新しい仕掛けを次々に展開しています。現在、札幌新陽高等学校に、フェローシッププログラム修了生の中原健聡さんが勤務されています。

中原さんは、スペインのプロサッカー選手として活躍され、Teach For Japanのフェロー(教師)として2015年より活動。2017年にプログラムを修了し、学校をつくるという目標を実現するため、現在は、札幌新陽高等学校で勤務し、校長業務の補佐や新規事業の立ち上げに関わっています。中原さんは札幌新陽高等学校の採用活動にも関わっており、8月5日にTeach For Japanとの合同説明会が実現しました。この機会に一人でも多くの修了生のことを知っていただこうと中原さんへのインタビューを実施しました。

中原 健聡

現職Teach For Japan CEO
札幌新陽高等学校 校長の右腕
赴任期間2015~2017年(第3期フェロー)
赴任先奈良県
校種小学校赴任(3年生、4年生担任)
教員免許 中学校・高校教員免許あり(体育科)
出身校大阪体育大学

ヤンチャ生徒がスペインのサッカー選手へ

まず中原さんの生い立ちやバックグラウンドなど、Teach For Japan(以下、TFJ)フェローになる前のお話について伺えますでしょうか。

私は大阪府出身で、小学生のときに両親が離婚して母子家庭で育ちました。小学2年生からサッカーをはじめ、小さい頃はずっとサッカーをしていました。しかし、厳しいチームだったため怒られることもよくあり、次第にサッカーを楽しめなくなりプレーするのが怖くなってしまいました。そして中学生のときにサッカーを辞めてしまいました。

サッカーを辞めてからはちょっとヤンチャをしていました。大学生になり教育実習で母校へ帰った時に、当時の先生からも「一番帰ってくる可能性が低かった生徒が帰って来た。」と言われました(笑)。当時の私は自分が注意された時に先生に対して「何も知らないのに、どの大人も一緒だな。」と大人を信頼していませんでした。自分の行動を注意してくる大人が皆同じに感じており、反抗的な考えも持っていて、一度嫌だと思った先生とは二度と口を聞きませんでした。今思うと、こうした当時の経験から、生徒に対して「なぜその行動をするのか」に目を向けることの重要性や、生徒への接し方などもチャンスは一度きりしかないということを意識するようになったと感じます。

<一人の先生との出会い> ~「中原が高校に受からなければ、俺は教師を辞める」~

サッカーを辞めてからはヤンチャなグループに所属し、授業にもあまり出なくなりました。高校に進学する気もなく、中学校を卒業したらアメリカに渡り、プロレスラーになろうと考えていたんです(笑)。しかし、中学2年生の時に日韓ワールドカップが開催されると、サッカーへの気持ちが再燃したんです。ただ、今さらサッカー部には入れないし、もしもプロレスラーになるためにアメリカへ渡ったら、当然、サッカーはできなくなる。そこで、高校に進学することを決めました。

母子家庭であり決して裕福ではなかったので、志望校は公立高校にしようと考えていました。そして、周りの仲間にバレないように勉強を始めました。すると、私の状況を察した数学の先生が、放課後にこっそりと勉強を教えてくれたんです。その先生は「中原が高校に受からなければ、俺は教師を辞める」とまで言ってくれました。この先生を辞めさせるわけにはいかないと思い、英語や国語など他の教科も必死に勉強するようになりました。

結果的には高校に合格でき、先生を辞めさせずに済んでほっとしたのですが、最初は本当に焦って、自分の行動に大変な責任を感じました。このときの経験が「自分の行動が人に影響を及ぼす」ということ、そして「自由」と「勝手」は異なるということを意識する原体験になったように思います。

高校進学後は、念願のサッカーを再開することができたのですが、当時非常勤講師で部活を見てくれていた先生から、「そんなにサッカーが好きなら、生涯サッカーと関われるように考えて大学へ進学した方が良い」との助言を受け、浪人をしてその先生の出身大学だった大阪体育大学へ進学しました。大学入学後は、全国から優秀な選手が集まってくるなかで、200名ほどの部員がA~Dのチームに分けられるのですが、私はDチームからのスタートで、Bチームまでいくことはありましたが、最後までAチームには入れず、試合に出ることは叶いませんでした。しかし、在学中にスペインのサッカーを見てプレイスタイルなどに共感をもち、「自分はこの国へ行けばプロになれる」と考えました。当時スペインのFIFAランクなども知らずにそんなことを思いました(笑)。

そして、周りの同級生が教員などの就職先を考えだすようになった頃、自分が教員になっても自分が理想と考えるサッカー中心の世界とは違うと感じました。また仮に今教員になっても、スペインへの道のチャレンジをした自分とそうでない自分とでは中身が全く異なり、子どもたちに伝えられることも違うだろうと考え、スペインへ行くことを決めました。

<何もわからないまま40万円だけを手にスペインへ>

スペインに行くと決めてからはとにかく働いて、スペインへの軍資金として最終的に40万円ほどが手元に残り、この40万円だけを手にしてスペインへ行きました。このとき、スペインへ行ってからの生活をどうするかなど、サッカー以外のことはほとんど深く考えていませんでした(笑)。

スペインについてからは、自分の宿泊先から徒歩で行けるサッカーチームにすべて行き、「ここでプレーさせてくれ!」と頼んでいきました。つたないスペイン語で自分のポジションや経歴を伝えて、履歴書を渡しました。しかし、返事は決まって「Lo siento(ごめんな)」でした。スペインに来てもサッカーもできず、ただお金がなくなる現状に対し「何のためにあんなに働いたんだ」と思いました。しかし、「お金がすべてなくなる前に帰らないと日本に戻れなくなる」などと考えていた自分に対して覚悟が足らないと感じ、「よし、日本には帰らない」と覚悟を決めました。

そして、「相手も人間だ、毎日お願いしたらサッカーの練習をさせてくれるかもしれない」とチャレンジし続けることにしました。断られたチームの中でも一番対応が良かったチームに毎日通い、最初は相手も「また来たのか」という対応だけだったのですが、通い続けるうちに「MARTES 20:00h」(火曜日20時)というメモを渡されました。このときは本当に嬉しかったですね。

しかし、念願のその練習が終わった途端に、「もう終わり、次はない」と言われました。

このときは、「とにかくミスはしたくない」「少しでも上手く見せたい」とばかり考えてしまい、選手としての特長を見せることができなかったんですよね。自分の個性がチームにどんな貢献をもたらすのかイメージさせることができなかったら、見知らぬ日本人をチームの一員にしてくれるはずもないのに、それを理解できていなかったんです。

野球などでも、「助っ人外国人」と言われるように、育てる目的で助っ人は取りません。育成目的なら現地の言葉が通じる選手を取る方が遥かに良いわけで、言葉の通じない外国人を取る意義を考えたら育成目的の選手より何かが秀でていて、レベルが高いことが必須です。それからは、弱点を見せないようにするのではなく、自分の個性や強みを見せつけていこうと考えるようになりました。

そして、自分のすべてを出し切ってから辞めようとチャレンジを続けるなかで、あるチームから声をかけてもらえるようになったのですが、一向に試合には出してもらえませんでした。「あいつより絶対おれの方が上手いのに何で?」と思っていましたが、あるときチームメイトから「お前チームと契約していないだろ?」と言われました。実はスペインのチームは23名の選手としか契約できず、私は契約外選手だから試合に出られる訳がなかったんです(笑)。それを知ってからは監督へ「誰かを辞めさせておれをチームに入れてくれ、そしたら必ず勝てる!」と直談判したんですが、それも実りませんでした。

それからはスペインにあるすべてのチームへメールを送りました。各チームのサイトすらわからず、それを調べるところからなので、すべて送るのに13時間ほどかかりました。同じチームに4通ぐらい送ってしまったりもしました(笑)。メールを送り終えると、二部Bリーグのあるチームから返信がありました。「実力がないと感じた瞬間に出す」と言われましたが、結果的にそのチームからは契約の打診がありました。ただ、そのとき一部リーグのチームからの誘いのメールも届き、二部Bのチームより一部のチームへ行きたいという想いから二部Bのチームへの所属を断り、一部のチームへのチャレンジをしましたがトライアウトには合格できませんでした。しかし、その帰りに別のチームのディレクターからスカウトを受け、プロのキャリアをスタートさせました。

<サッカーが教育をやるためのツールになった>~日本を活き活きした人で溢れる社会にしたい~

この頃くらいから、自身のキャリアが特徴的なため日本の学校での講演依頼などが来るようになりました。一時帰国した際などに講演をさせて頂いたのですが、日本の講演会では子どもたちからの質問が就職についてのことばかりで、夢などについて聞いても「就職がしたい」と職に就くという行動しか答えられない学生や、夢がないという子どもが多いことに疑問を感じました。

スペインでの生活から日本は可能性に溢れていることを感じていたので、この違和感は大きかったです。たとえば、日本では医者でも弁護士でも教師でも、その職に就く倍率がありますよね?つまりこれはどんな職業もたとえ1%でも可能性があるということなんです。でも海外では違う。スペインにも、自分で職業を選ぶことができずに、ゴミ漁りや、仕方なく生きるために強盗をする子どももいました。それに比べて日本では生きていくための選択肢や可能性が溢れているのに、自分で勝手に限定してしまって、夢を追いかけたり、人生を楽しもうとしていない。このことが本当に残念に感じられました。この点は「人が育つ環境」でしか変えられないと感じ、教育をやりたいと強く想うようになりました。このときからサッカーをやる理由が教育をやるために変わり、自身のなかでサッカーが教育のためのツールになりました。

それからは「日本を活き活きした人で溢れる社会にしたい」というビジョンのもと、「自分で学校をつくりたい」と思うようになりました。

先生はプロサッカー選手!?スペインのプロリーグから小学校教員へ。(後編)はこちらから

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